[中村祐造さん死去]日本バレーの語り部…72年五輪で金(毎日新聞) - livedoor ニュース



ご冥福をお祈りいたします。



バレーボールの日本男子が金メダルを獲得した72年ミュンヘン五輪で、チームと日本選手団の主将を務めた中村祐造さんが20日、68歳で亡くなった。ユニホームの袖をまくり上げ、大きな声でメンバーを鼓舞する姿が印象的だった中村さん。現役引退後は腎臓疾患と闘いながら「日本のバレーボール、そしてミュンヘン五輪金メダルのかけがえのない『語り部』」(松平康隆・日本バレーボール協会名誉会長)として生きた中村さんに、かつての仲間や「教え子」たちが悼む声を寄せた。

 中村さんはミュンヘン大会準決勝のブルガリア戦で、2セット先取された後の第3セット途中から投入され、ベテランらしい冷静なサーブレシーブなどで試合の流れを変え、奇跡の大逆転に貢献した。当時の代表メンバーの森田淳悟・日体大教授(62)は「『つらい』とか『嫌だ』という言葉を、絶対口にしない人だった」と振り返る。木村憲治・日本バレーボールリーグ機構監事(65)は「独特のリーダーシップがあった。『自分は機関車』と話していたが、我々はその背中を見てついていった」と評した。

 新日鉄では27歳で監督兼主将に就任し、主に高卒の選手を鍛え上げることで当時の日本リーグに黄金時代を築いた。「教え子」の一人で現プレミアリーグ、堺ブレイザーズ副部長の田中幹保・元全日本男子代表監督(55)は「練習が厳しく、鬼のようだった。1人100回連続スパイクを打たされたり、3人1組でレシーブを1時間受けさせられたり……。でも、練習が終わると人間が変わったように、心づかいが細やかだった」と振り返る。田中さんと同様に、中村さんの薫陶を受けた堺ブレイザーズの小田勝美部長(58)は、中村さんが97年に新日鉄を定年退職した後もバレー教室や講演を続けていたことを踏まえ、「バレー一筋の人生だった。天国でも、きっとバレーを続けるのでしょう」と話した。






松平康隆監督率いる日本男子バレーボールチームが、金メダルを獲得したミュンヘン五輪が1972年。
その時の主将が中村祐造氏。


子供心に、よく覚えており、バレーボールという競技に興味を持ったのが、この時。




松平さんが退任した後、監督をやったことは覚えていたが、
確か五輪時には監督でなかったはず…



で、記憶を整理する為に、歴代監督を調べてみた。


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そうか。

小山さんの後、中村さんでしたか。




ミュンヘン後のモントリオール五輪、
日本は世代交代がうまく行かず、メダルを逃す4位。



それで中村監督にバトンタッチ。




ミュンヘン後に代表を引退していた森田淳悟さん(一人時間差の発明者)を切り札として復帰させ、
その年のワールドカップ77で銀メダルを獲得。

みごとに日本を復活させたのであった。




その後、かなり経って、
私がこういう仕事に携わることになって、
薄~くではあったがバレーボールにも関わりがあったのが、ちょうど中野監督時代。(旧姓、池田)



そう、最初に関わったスポーツがバレーボール。



中村祐造氏に直接お会いした事はないが、
当時私がいた所に、よく新日鉄(現堺ブレイザース)の選手や全日本の選手が来ていたのを思い出す。



後の女子監督、柳本晶一さんや、後の男子監督になる田中幹保さんなど。


学生時代(日体大)の川合俊一さんなども。





何となく、中村元監督の訃報を聞いて、
昔を思い出してしまった。




世代交代はうまく行かずメダルを逃したモントリオールから、
森田淳悟選手を復帰させ、花輪晴彦選手らをうまく使い結果を出した中村監督時。




あの当時が、今から考えると全日本男子バレー最後の輝きだったかも知れない。




あ、いや、最後にならないように、現役選手の皆さんにもぜひ、頑張っていただきたい。